先日、「チェーンソー講習会」に参加した時に
  講師として前に立って話をしていた人についての話。
  
  自分が全く知らないことだったからということを差し引いても、
  その人の話はかなり詳しく、おもしろく、専門的だった。
  製品のこと、各メーカーの仕様、業界のこと、もちろん木の切り方なども。
  
  最後までは聴く集中力が続かなかったが、
  自分の興味は話の内容よりも講師の人そのものに向いていくことを体験した。
  
  休憩中、「なんでそんなに知っているんですか?」と訊くと、
  「何十年もやってるからね。情報は勝手に入ってくる環境にいるし、
  常に勉強はしてるよ。」との返答。
  
  「今、自分の話していることはインターネットにも出ていないと思う。
  本当の専門家はもうネットに情報は出さなくなった。
  いいかげんな人が出す情報を素人がうのみにするから事故が起きる。
  この講習で自分が知っていることは全て伝えたいし、
  それが人のためになれば嬉しい。」と言っていた。
  
  
  
  誰も知らないことを知っているということがその人自身の力になり、
  他人のためにもなりうるのだと強く感じた。

  
  「では自分は何を知っていて何ができる?」と
  問いかける機会をもらった有意義な2日間となった。
  
  
  
  一方で、「知識」と聞くと自動的に思い起こされるのが「感性」だ。
  
  無限の可能性を持つ子どもたちと関わる時、
  知識以上に感性を大切に育みたいといつも考えていて、
  Gリーダーにもそう伝えている。
  
  
  
  レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」の文中から紹介したい。
  
  『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
  子どもたちがであう事実のひとつひとつが、
  やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、
  さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。
  幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。
  
  美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの
  感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情が
  ひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについて
  もっとよく知りたいと思うようになります。
  そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。
  
  消化する能力がまだそなわっていない子どもに、
  事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような
  道を切りひらいてやることのほうがどんなに
  大切であるかわかりません。・・・』
  
  いつも心に大切に持っておき、子どもたちと関わり続けたいと思う。      
  
  【文:守屋 謙】