平日のガイアの森のようちえんでの1コマ。
  
  「1と2の間に短い針がある時は1時で、2と3の間にある時は2時なんよ」と話す僕。
  「そんで長い針の読み方はね、ちっちゃい目盛りが60個あって・・・」
  
  「あっ!クモっ!」Kちゃん(5才)は時計にとまっていたクモに興味が・・・(笑)
  
  「ごめん、ごめん、教えてほしくなったらまた言ってね。」と時計を元に戻す僕。
  最近、時計の読み方に興味があるように見えていたKちゃんが、
  時間を言えなくてもどかしそうにしていたのを見て、僕がとった行動だ。
  わからなくて困っているのかと思って教えかけたものの、
  教えてほしいわけではないということを、
  話を聞かないというとてもわかりやすい意思表示によって察した僕は説明を止めたのだ。
  笑える話?いや笑えない話だ。
  
  
  
  知りたくもないことを教えられたって、身になるのだろうか。
  知らなければいけないこと、
  もしくは知っておいた方がいいと大人が思うことを覚えることが学びなのだろうか。
  僕はそうは思わない。
  
  
  
  ガイアの森のようちえんで、「読み書きのお勉強」の時間はない。
  だが、Kちゃんは僕らへ手紙を書きたいと思って、
  家に帰ってから意欲的に字を覚えているとお母さんが教えてくれた。
  
  同じように「体操やお遊戯」の時間もない。
  だが、お母さんは「前はぷにぷにしてたのに、
  最近体幹がしっかりしてきて、しゅっとしてるんです。」と驚きと喜びを伝えてくれた。
  たしかに、以前は登れなかった木にも上手く体を使って登れるようになっているし、
  遠くまで探検やお散歩に行っても音を上げなくなっている。
  
  虫めがねと太陽光で煙があがること、
  山肌から湧いている水が温かく感じられる不思議、
  透明感のある赤色で大きな粒のフユイチゴが甘いこと、
  あそびや体験の中から多くのことを感じている。
  
  大人が教えることよりも、体験して感じることの方が子どもたちの中に残るはずだ。
  
  
  自分がやりたくてやっていること、
  つまり強制されずに自発的にやっているあそびからこそ、
  本当の学びや成長があると思っている。
  あそびと学びを分けない「遊学」という考え方。
  大人の環境づくりは大事だが、その枠の中で自由にあそび、学ぶ主役は子ども達だ。

  
  大人は子ども達の持つ主体性を抑えつけないように心がけたいものだ。
  
  
  
  先日、Kちゃんは図書館に行き、「山に肉をとりに行く」という本を見つけて読んだ。
  そして「イノシシのお肉が食べたい!」と言ってきた。(笑)
  
  よし!あの猟師さんに会いに行こう!
  【文:守屋 謙】